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意識の高い人を目指すブログ(仮)

アニメの感想とか(予定)

劇場版ラブライブ雑感 話題の記事への反論

はじめに

 この記事は劇場版ラブライブに関して各ブログにて展開されている評論に触発され、ノリと勢いで書いてしまったものである。元々の文章力、知識、知能の欠如に加えて深夜のテンションも加味されているため、大変お見苦しい文章になっている。予めご了承願いたい。くわえて、結論部は正直、身も蓋もない事を書いているので、ご容赦願いたい。

 さて、本論はあるブログの記事に対する反論(だったり肯定)が主目的である。あるブログとは最近話題になった、おりあそ氏の「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」である。*1

 

oriaso.seesaa.net

 

 この記事に対する意見を述べるのであれば、まず私の立場を明確にしなければならないのだが、明確な立場を取れないことを先に謝罪しておく。というのも、私のラブライブに対する熱意は冷めてしまっているからだ。ではなぜそんな状態なのに反論するかというと、一時期とはいえハマっていた身として納得がいかない部分があったからである。野次馬根性的なのがぶっちゃけ大きい。

 そのため本論ではおりあそ氏の記事に対して反論する部分に加えて、1期でラブライブにはまり2期で興味が薄れてしまったファンから見た劇場版、という大きく分けて2つについて記述したい。前置きが長くなってしまったが、まずおりあそ氏への反論部分を述べる。

 

 

1.アイドル、またはラブライブという作品の物語性について

 おりあそ氏へ一番反論したい部分というのは「アイドルの物語性」という部分である。細かい所では他にも色々あるのだが、本論ではこの一点に絞って述べたい。

じゃないと筆者の文章力ではまとめられない

 

1-1.現実のアイドルとの比較について

 アイドルの物語性に関して、おりあそ氏は実在のアイドルとラブライブを比較している。指原莉乃渡辺麻友を引き合いに出し、彼女たちの生い立ちや生き方、アイドル像など、ステージ上で行われるパフォーマンス以外のバックボーンがあるからこそ、アイドルの物語性が生まれる、という主張だ。

 実在アイドルのバックボーンが物語性なのであれば、ラブライブもアニメ本編以外の要素が物語性たりうるのではないか。本論の一番の主張がこれである。ラブライブはアニメ以外にも多様なメディア展開がされている。文章媒体やマンガ、ゲーム、声優によるライブ活動など、ラブライブ!という作品を構成する要素は多岐にわたる。それらの要素を抜きにして、ラブライブ!の物語性を語るのは公平性に欠けるのではないか。

 

1-2.アニメ以外のラブライブ!における物語性 

 では、アニメ以外の要素を考慮するとどうなるのか。本論では特に声優による、現実世界での実際のアイドル活動に焦点を当てたい。ラブライブを構成する要素の中でも、かなり大きな割合を占める要素だと考えられるからだ。

 ラブライブという作品は、最初から順風満帆であったとは言いがたい。最初のシングルが500枚も売れない、コミケでの手売りに親が買いに来る*2、担当声優陣が声優経験のない新人が多数、なんていう状況である。

 それが今はどうか。SSAでのライブはチケットは入手困難、オリコン1位獲得、声優陣は若手でも屈指の人気を得るようになった。このサクセスストーリーから、物語性を感じられないというのだろうか。アニメでのμ'sと声優によるμ's。それらが相互に影響を与え合って成立するのがμ'sというグループであり、ラブライブ!という作品なのである。

 現実世界でのμ'sの活動を体験していれば、アニメ、そして劇場版の内容もまた違って感じられるはずである。ゼロからのスタートだったアニメのμ'sというグループが、ショービジネスの象徴的な舞台、アニメリカはニューヨークでパフォーマンスをするというのは、同じく決して順風満帆ではなかった声優陣によるμ'sがSSAでライブをしているという現実と重なりあう部分があるはずだ。

 声優陣による実際のライブを見てみるとわかりやすい。4thや5thライブでは曲間にアニメのキャラによるショートストーリーが挿入されるのだが、それが、実際の声優によるSSAでのライブと重ねあわせたストーリーになっているのだ*3。そのような演出によって観客は、現実のライブ会場にいながら、アニメの中のキャラクターと関わりあっているかのような感覚をえることになる。

 劇場版では逆に、映画を見ていながら実在のμ'sとして活動している声優を想起するだろう場面がある。それはアメリカでのライブシーンだ。アメリカでのライブで用いられた和風の衣装、あれは声優陣によるライブで用いられた衣装を意識していると思われる*4。今までアニメの再現を声優が行ってきたラブライブが、劇場版になって現実世界での要素が反映されたのだ。この部分からも、2つのμ'sの関係性、そして物語性というものが感じられないだろうか。

 ラブライブにおけるアニメのキャラクター・物語と声優の境界はかなり曖昧であり、相互に影響しあい、そして補完しあっているのである。

 

 1-3.アニメ以外を考慮するべきか否か

 前述のように、アニメ以外のラブライブ、とりわけ声優による活動を考慮すればラブライブという作品の物語性が大きく補強されるだろう。では、ラブライブ!という作品を語る際に、アニメ以外の要素を考慮するべきなのだろうか。

 最初に述べたように、おりあそ氏はラブライブの物語性を指摘する上で実在アイドルのバックボーンを引き合いに出している。であれば、ラブライブ!という作品を語る上でも、アニメ以外の部分を考慮しなければ公平ではないと考える。

 また、それを抜きにしても、そもそもラブライブ!という作品は多様なメディア展開をしている作品である。それぞれのメディアで展開されるラブライブが、ラブライブ全体の物語性を補完、補強していく。何か1つのメディアだけを取り出して批評することが難しい作品なのだ。ラブライブを楽しむためには、受け手側が様々なメディアに目を向けなければならない。

 以上のように、ラブライブ!は受け手側が作品に対して能動的な態度を取らなければ、真の意味で楽しむことが出来ない構造なのだと考えられる。この構造そのものは、否定されるべきではないだろう。アニメはアニメの中だけで完結するべきだ、というのは最もな意見ではあるが(私も正直そう思う)ラブライブ!という作品は上記のような展開、戦略をとっていて、しかもそれが成功しているのである。もしこの戦略が気に入らないのであれば、そもそもラブライブ!という作品が合わないのであろう。おもしろい、おもしろくない以前の問題である。

 いささか卑怯な主張ではあるが、どんな作品でも合う・合わないというのは絶対にあると思う。その作品を構成する根幹部分と自身の主張が相容れないのであれば、それはもうどうしようもないのではないだろうか。

 とりわけ、ラブライブ!においては声優による実際のライブ活動が大きな意味を持ってくる。この声優による実際の活動を追っているのといないとでは、アニメ本編の楽しさにも雲泥の差が出てくる。それに加えて、本編の描写から感じられる物語性やキャラクターの成長といったものにも、違いが出てくることは想像に難くないだろう。

 

 2.TVシリーズ2期で感じた違和感と劇場版での不満点

  前章での主張を見ると私が熱心なラブライブのファンであるかのようだが、実際はそうではない。最初に述べたとおり、私は既にラブライブに対する熱を失って久しいのである。そもそもアニメ1期から入った「にわか」なので熱を失うも何もないのではあるが。本章では私が2期で感じた違和感と、それを踏まえての劇場版の感想を述べてみたい。

 

2-1.高坂穂乃果のカリスマ性の喪失と作品のジャンル変更

 ラブライブ!高坂穂乃果あってのラブライブ、もしくは穂乃果あってのμ'sであると考えている。他のキャラクターのファンは異論があるかもしれないが、ラブライブという作品における高坂穂乃果が占める割合は極めて大きい。特に、穂乃果のカリスマ性は重要な要素だ。陳腐な言葉かも知れないが、彼女のカリスマ性こそμ's、そしてラブライブを支えていたのは間違いないだろう。

 1期ではこのカリスマ性、私は営業力などと呼んでいた。つまり、他のメンバーを勧誘する能力、そして問題を解決していく力である。私はこの部分、仲間を集め、仲間と協力して困難に立ち向かっていくという「部活モノ」の様な部分に作品としての、そして穂乃果のリーダーとしての魅力を感じたのだ。

  しかし、2期ではそのような魅力を見いだせなくなった。1期での穂乃果は「カリスマ性のあるバカ」であったが、2期の穂乃果は「単なるバカ」になってしまったように感じられたのだ。これは穂乃果の知能が低下したとか、キャラクターの方向性が変わったとかではなく、物語の方向性、又はジャンルが変わってしまったためと推測する。ラブライブ!のジャンルは1期の部活モノから、日常系のようなジャンルに変更されてしまったのではないだろうか。

 2期は(大会としての)ラブライブを優勝するというのが目標であるが、実際はほとんど大会の描写はされていない。それよりも各キャラクターの掘り下げを中心に行われている。2期では穂乃果のカリスマ性を発揮する場面が失われてしまったのだ。仲間を集める必要性はなくなり、当初の目的であった廃校も阻止してしまった。対処すべき問題がなければ、カリスマ性を発揮することも出来ないのは当然である。

 加えて園田海未絢瀬絵里が「穂乃果のストッパー」という役割を放棄してしまったのも大きい。穂乃果の暴走を防ぐ重要な役割を持つこの2人が2期では全く機能していないのだ。海未は顔芸キャラに成り果てるし*5、2期のエリーチカからは全く“かしこさ”が感じられない*6。この2人の行動はキャラクターもの、日常系の作品としてはプラス要素にはなるかもしれないが、1期のような展開を期待していた私には大きな違和感となっていった*7

  

 2-2.μ'sメンバー以外の描写の排除と劇場版におけるスクールアイドル全体への言及

 前項で述べたようなジャンルそのもの、つまりメインのキャラクターを中心に描き、それ以外を排除するという形式じたいを非難するべきではないだろう。このジャンルのはこのジャンルの楽しみ方の作法があり、物語がある。ましてや、このジャンルを好むファンの姿勢を批判するのは的はずれだろう。

 しかし、劇場版ラブライブ!においては大きな問題が出てくる。それは映画の後半において「ラブライブという大会、そしてスクールアイドルという存在そのもの」への言及が出てきたためである。

 今までμ's以外の描写を極力排除してきたのに、劇場版の、しかも後半においていきなりラブライブという大会の存続や、スクールアイドルという存在そのものへの想いを語られるのは、唐突感が否めない。他のスクールアイドルの描写が皆無なのに、そのような事を主張されても説得力が全くないのである。この部分はおりあそ氏とも共通の感想だ。

 劇場版の後半では、各地のスクールアイドルたちと協力して1つのライブを作り上げることになる。この関わりのみでμ'sとそれ以外のスクールアイドルとの関係が描写されたといえるだろうか。とてもそうは思えない。アニメのラブライブにおいてμ'sとそれ以外のスクールアイドルは隔絶された存在に感じられてしまうのだ。μ's以外の他者と関わってこなかったのに、最後の最後になって少し接点が出来たからといって、それで全てカバーできるはずがない。たとえるならば、劇場版の新キャラクターがいきなりTVシリーズの内容に言及してくるようなものである。ぽっと出の新キャラクターに、今まで積み重ねてきたものにどうこう言われても、納得するのは難しいだろう。

 ラブライブという大会やスクールアイドルへの言及をしたければ、最低限1期2期でA-RISEの描写を増やすべきだったかと思う*8。唯一まともに描写されたμ's以外のスクールアイドルでさえ、ほとんど活躍していない。そのような展開だったのに劇場版でいきなり、上記のようなテーマに触れるのはいくらなんでも無理がある。

 

3.結 劇場版ラブライブ!は失敗作なのか

 1章ではおりあそ氏への反論をラブライブの物語性という点に絞って述べた。2章では私のラブライブの感想を述べた。

 では結論として劇場版ラブライブ!は失敗作だったのだろうか。私の答えは「否」である。2章で述べたように劇場版ラブライブ!は、作品の結論部分、一番主張したかった部分に大きな問題がある。それなのに、失敗作ではないというのはなぜか。

 それは劇場版ラブライブ!がファンムービーとして、とても優れていた作品だったと思うからだ。ここでいうファンムービーとは、信者的に、盲目的にラブライブを信仰している人向けの作品、ということではない。2章で述べたような、アニメ以外のラブライブ、特に声優の活動も追っていたようなファンに向けた作品ということである*9

  私が劇場版をそれなりに楽しめた理由もここにある。2期で興味が薄れはしたが、声優のライブには何度が参加してきた。声優の成長を見てきた身としては、アメリカでライブを成功させ、μ'sがラブライブやスクールアイドルの象徴的存在になる物語は、感慨深いものがあったのである。劇場版の内容に多少不満がありながらも、最終的には満足できた、という人はそれなりにいるのではないだろうか。そして、そういう人たちはアニメ以外のラブライブにも触れていたのではないだろうか。

 思い入れが強ければどんな作品でも楽しめる。それは確かにそうだが、ラブライブはアニメ以外のメディアも含めて大きな物語を形成している。とりわけ、声優陣のライブ活動はアニメのキャラクターや物語にも直接的に影響を与えるような大きな要素だ。それらを抜きにしてラブライブを語るのは難しい。そして、劇場版ラブライブ!は「アニメ以外のラブライブ」を含めて真に完成する物語だったのであろう。

 もしくは、アニメのラブライブ!は、アニメ以外のラブライブを含めた、大きな物語としてのラブライブを表現するステージだったではないだろうか。アニメのラブライブ!はミュージカルとか、μ'sというグループのPVなのでは、という指摘を見ることがある。それは、アニメ以外で形成されたバックボーンを元にキャクター達が生きて、表現されたステージだからなのではないだろうか。

 

おわりに

  まず、(そんな奇特な人がいるかは不明だが)上記のような稚拙な文章に最後まで目をとしてくださった人に感謝を。そして、こんな雑な意見表明をするために引用してしまったおりあそ氏に謝りたい。本当に申し訳なかった。本記事で述べた内容は、正直10分の1以下の内容に圧縮できるような内容の薄さである自覚がある。そのようなものに時間を取らせてしまったことを重ねて謝罪したい。

 つまるところ、ラブライブを楽しめるかどうかは、作品が面白い・面白くないという以前に「合う・合わない」というところに左右されるのだと思う。本当に身も蓋もない主張だ。

 この合う・合わない部分というのは1章で述べたように、ラブライブという作品の展開方法、戦略のことである。もっと具体的にいえば、ラブライブの物語性をアニメ以外の外部に委託しているという点である。物語性に関してはアニメ本編以外の部分で担われているのが大きいため、そこを楽しめないのは致命的だろう。

 つまり、この記事で私が一番言いたかったことは何かというと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイカツとプリパラ見ようぜ!

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・と、いうことである。最近はアイドルもののアニメが多数あるのだから、何もラブライブに固執することはないだろう。

 

そんなわけで私はアイカツとプリパラに鞍替えしました( ˘ω˘)

 

本当に身も蓋もない結論で申し訳なかった。

 

 

 

補足

 一応、アイカツとプリパラを引き合いに出したちゃんとした理由もある。私はラブライブ1期の部活モノ的な要素に惹かれた。友情・努力(・勝利)的なアレである。これはジャンプだが・・・つまり、そういう少年漫画的なノリを求めていたのだが、2期でそういう方向性ではなくなったわけである。

 そこでアイカツとプリパラである。これらの作品は私がラブライブ1期に求めていた内容だったのだ。時間と予算を潤沢にかけて、丁寧に丁寧に展開していく物語は本当に素晴らしく、見事に宗旨変えをしたというわけである。

 というかここ数年で幼児向けアニメを見るようになり、大抵の深夜アニメは幼女先輩向けのアニメやホビーアニメにかなわないんだなぁ・・・という感想を抱くまでになったのだが。

それはまた別の機会に述べたい(述べるとは言っていない)。

 他にも、ラブライブの物語性は本当に意味のないものなのか、とか。キャラ描写も百合豚に向けたものに成り下がってしまったというのは本当か、とか。そもそもアニメの物語性ってなんだよ、とか。語りたい論点はいくらかあるのだが、それもまた別の機会に述べようと思う(述べるとは言っていない)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:他にもおりあそ氏に気合の入った反論をしていたViola氏のブログ(http://hiyamasovieko.hatenablog.jp/entry/2015/06/24/004202)も参考にしている部分がある

*2:このエピソードに関してソースを思い出せないので指摘があれば修正します

*3:アニメのμ'sメンバーがSSAでライブをするというストーリー

*4:輝夜の城で踊りたい』

*5:修学旅行でのトランプなど

*6:そもそも「かしこい かわいい エリーチカ」というキャッチコピーからしてかしこくないだろうというツッコミはなしである

*7:1期の頃からその伏線があったように感じる。特に1期10話「先輩禁止!」は大きかったと思われる。μ'sがただの穂乃果ファンクラブになるのを防いでいた大きな要素は、先輩である絢瀬絵里東條希の存在ではなかろうか。彼女たちの「立場」が穂乃果の暴走に対する防波堤となっていたと思う

*8:A-RISEのミニアルバムくらい出せばよかったのに。愚痴である

*9:完全な余談になるが、この点は『まどか☆マギカ新編叛逆の物語』とは真逆の方向性だなと感じる。叛逆の物語に関して虚淵玄は単なる後日談になっては意味が無いと、各種のインタビューで述べている。たとえファンに受け入れられなくてもその後の"物語”を展開しようとしたまどかと、ファンに受け入れられる展開を目指した劇場版ラブライブ。近年の深夜アニメで最大級の話題となった両作品の差は興味深い。もちろん、まどかもファンを意識した作品であることは間違いない。監督へのインタビューでもファンに引かれてしまってはしょうがない、という旨の発言をしているし、その結果がほむら1stテイクの見送りなのは言うまでもないことだろう